福岡市立博多工業高等学校

Challenge HAKKO

校旗・校歌紹介

校旗

校旗の臙脂の地色は、スクールカラーで情熱を表しています。
校章には,片仮名の「フ」を9つ組み合わせた銀色の福岡市章の中央に、工業を表す「工」が、そしてその中に高等学校を表す「高」の字があしらわれています。
「高」と「工」の文字の配色は、生徒たちが創造する黄金色に囲まれた輝かしい未来を表しています。

校歌

博多工業高等学校校歌

試聴(伴奏のみ)

試聴(歌唱あり)

音量にご注意ください。

校歌制定由来記

一工二工の校歌は歌詞が時代にそわないところがあるばかりでなく、そのどちらをも本校の校歌とすることはできない。博工としての校歌が欲しい。校歌をもたないことはなんとしても寂しい。こうして第一回の校歌制定委員会ができたのは、たしか昭和二十四、五年頃だったと思う。

併し職員、生徒、父兄からの応募の中にはめぼしい作品もなく、ただその当時本校の職員であった糸藤氏のものが選考の最後まで残ったが、これも校歌とするには色々と難色があり、結局該当作品なしで終った。この歌詞はその後しばらく応援歌として歌われていた。

二十八年頃再度この議が起り、今度は一万円の賞金をかけ公募したが佳作数篇をえたのみ。この佳作数篇に対しては賞品を送る。

前二回の経験から、誰か適当な人を物色してということで、白羽の矢をたてたのが、もと福岡商大の学長で現在大分学芸大の学長である花田大五郎氏(歌人花田比露志)であったが、どういう事情か詳細な事はわからないが、これも不成功に終っている。

二十九年になって戦後発足した新制中学で、校歌をもつ学校があるというので、三、四の学校をまわり実情を調査した結果、かつて福岡日々新聞歌壇の選者で、当時西日本新聞の学芸部に籍のあった持田勝穂氏が浮かびあがり、私がその使として氏を訪問し、快諾をえた。その結果できたのが四節からなる歌詞で、作曲は氏の希望により学大の教授である森脇憲三氏に依頼する。

昭和三十五年八月末現校地に移転したため、歌詞の中に一部訂正を要するところができ、それに四節はながすぎるのでこの際三節にしてはという意見をいれて、次のような原案をつくる。

(1)第一節一、二行目
青雲ゆたかに 輝き映ゆる
濠あり、舞鶴 古城のほとり
を、
A 青雲ゆたかに輝き映ゆる
①森あり 学び舎 筑紫の丘に
②空有り 筑紫野 みどりは深し
③丘あり 学び舎 我等が母校
B 白雲なびきて(流れて) 輝き映ゆる
①森あり 学び舎 筑紫の丘に
③丘あり 学び舎 我等が母校
(2)四節を三節にしたい。三四両節をいっしょにして第三節とする。
(3)雲あり、背振の遙けき嶺をと、雲あり、
遙けき背振の嶺に上のような原案をもって早朝氏を自宅に訪問し意見を聞く。
話しあいの結果、
(1)についてはA-3、(2)については三四両節をいっしょにして、
栄冠あらたに 時代を越えて
空あり 筑紫野 みどりは深し
青春の血潮 ここに滾り
黎明の希望 ここに燃ゆる
とする。

この原案に対して校務委員会で次のような意見を聞く。
その一つは第一節の“我等が母校”が二節の“轟くところ”三節の“みどりは深し”と照応しない。第二は“背振”という語をどこかにいれたい。第三に“雲あり”を“山あり”にすると一、が空-筑紫野、二、が海-玄海、三、山-背振で、落着きがよい。上のような三つの意見をいれて、現在の歌詞のようになおし、それを原案として郵送、推敲を依頼したところ、
・・・・・補正についての御意見、もっとも適切なる配置替えですし、時間をかけて私も考えてみましたが、やはり之が一番おちつきますので、同封原稿のとおり浄書してお送りいたします・・・・・
という返事をうけ、昭和三十五年十一月現在の校歌の決定をみる。

公式キャラクター

ツバキチ

油山にしか飛来しない「ハチクマ」という鳥がモチーフ。油山の由来のひとつである椿(ツバキ)の花を被っています。キャラクターは漫画研究部生徒が制作、キャラクター名を全校生徒から公募し決定しました。